おにごっこ




「……ということで、みんな、ルールは理解してくれたかな?」
そう乾が青学テニス部の部員に説明したのはいつもと変わらない放課後のテニスコートの上だった。
夏の日差しとは打って変わって太陽が遠く感じる冬。
雪こそ降っていないものの、外での部活ともなると手がかじかむ季節となっていた。
「だからってぇ、にゃんでそんなのに付き合わされなくちゃいけないのさー!!」
その紅く、今にもとびかかってきそうな猫のような面持ちで言ってきた英二を筆頭に、部員の中から も不満の声が多々聞こえてくる。
「夏場に比べてこの時期は体力が落ちる。かといって普通にランニングをしていると緊張感が足りな い。今日のメニューは一石二鳥だと思うがな」
レギュラー落ちして以来、部のマネージャーも兼任してくれているようなものになった乾は得意気に 今日のメニューだと言ってこれを持ってきたのだ。
その名も、「部内対抗鬼ごっこ」
「だがただの鬼ごっこだと思わないでくれよ?部をあげて鬼ごっこをするからにはそれなりの罰ゲー ムも用意してある」
どこからともなく唾を飲む音が聞こえてくる。
果たして部員の何人がのんだものなのだろうか。
少なからず、それに恐怖の色を浮かべていないのは2人しかいない。
誰もが予想していた事実。
そう、試飲係。
乾の実験道具となることはみんな百も承知だ。
それを恐れていないのは作った張本人とそしてこの男、
「それって、新しい乾汁ができた、ってことかな?」
不二周介。
その顔には楽しそうな笑みが縫い付けられており、周りの空気となじまない。
みなわかってはいたが、その恐怖故言葉にすることができなかったことをあっさりと口にする。
周りの冷ややかな目が不二に注がれた。
「ああ。そうだよ、不二。よくわかったな」
その視線は「何を当たり前の事を言っているんだ」と心の中で思っている部員により、瞬時に乾へと 戻された。
あたりにどんよりとした空気がただよい始める。
その空気は冬のすっきりとした空気をすっかりと覆いこんだ。
そして臭い始める異臭。
その発生源は乾が何時の間にか取り出したコップを持つ右手にあった。
臭いをかんだだけで意識が遠のいてしまいそうになるその物体は緑色に淀んでいて、そして…
「あの……乾…先輩?……そのこっぷの中から“きぃぃっ!”って声がさっきから聞こえてるような 気…するんスけど……」
普段明るい声を発しまくっている桃までもがもはやその面影は持ち合わせていない。
声を出せるものもいなく、コップから聞こえてくる“きぃぃっ!!”という声(?)だけがその場に 響き渡っている。
太陽の光が一瞬雲に隠れた。
これこそが今回の新作だと言うのだろうか。
それは認める事だけでかなりの勇気を必要とするであろうこと。
今までぴくりともせず黙って聞いていた部長の顔がひくっ、と引きつった。
「あぁ、こいつは元気がいいからな。まあ、そんなきにしないでくれ」
はっはっは、と笑う乾を目にして、「もう生きて帰れない」と覚悟を決めた者たちで暗雲に絶望の雲 がもう一層積み重なった。
風が冷たい。
これが最後に吸えるこの世の空気か、といった具合に涙を流しながら必死にこの事実を頭で認識しよ うとする者、最早意識がなくなってしまっている者、そして
「無駄な説明いいっすから、早くおっぱじめましょうよ、乾先輩」
闘志を剥き出しにする者……越前リョーマ。
そしてレギュラー陣。
それは勿論このゲームに参加したいという意志からではない。
『誰がこんなもの飲むか!!!!』
ただその一心からだった。
誰にも恐れず、何にも恐れず、決して屈しない男。
そんな集まりのこのレギュラー達を太陽が祝福しようと顔を出した瞬間
ゲームの幕は切って落とされた。


ルールは簡単だった。
鬼に捕まった者は鬼になる。殲滅戦。
それを体力作り不足に利用しようとした乾の考えをあっぱれと言うべきか、顧問はそれを歓迎し、許 可を出した。
だがただの鬼ごっこではないのだ。
全てが鬼になり、最後の一人が決まったらその1名が勝者。
それだけではつまらない。
そこからなのだ。
最後に生き残りを捕まえた鬼と最後に鬼になった者の最終対決。
鬼が最後の生き残りを捕まえたその瞬間、最後の勝負……かけっこが始まる。
鬼と最後の鬼はその場から部室までのかけっこが待っているのだ。
先に部室にあるベルを取った者が勝ち。
もし鬼が勝てば最後の鬼、一人のみが乾汁を飲む。
そして最後の鬼が勝った場合は最後の鬼を除く全員が乾汁を飲む。
そんなゲームとなっていたのだ。
勿論最後の勝負において、他の者の手出しは無用。
部室にはビデオカメラが回っていて、証拠も完璧、といった具合になっている。
最後の勝負を考え、体力を温存しながらいかにして鬼の手を逃れるか。
そしてあの乾汁の恐怖に耐えられるか。
体力、メンタル、双方の計算が必要となるこのゲーム。
初めの鬼は乾から始まった………


辺り一面に砂埃が舞った。
乾がゆっくりと数を数え始める。
自分が一番と他人を押しのけて先へ進む者。
数を束ね頭をひねる者。
これはかくれんぼとばかりに最高の隠れ家を探す者。
何を考えているのか、とにかくこの者達は逃げていた。
青学レギュラー不二周介、越前リョーマ。
沢山体力自慢の男たちが集まっているであろうこの部活の面々にかなりの差をつけて2人は校舎の中 へと姿を消した。
「何でついてくるんすか」
背の小さな、しかし強い瞳を持った少年、リョーマが口を開く。
深く黒い髪が絶えず風に流される。
「僕は僕の進みたい方に走ってるだけだよ?むしろついてくるのはそっちじゃないかな?」
「………」
にくたらしい返事が不二から返ってきて、思わずリョーマは次に返す言葉をなくす。
走る時までも笑顔を絶やさないその不二の顔からは5分以上ノンストップで走っているというのに汗 ひとつ見られない。
ただ素朴な疑問をぶつけただけでそんな風に言われてそのまま大人しく走っているのも憎たらしい。
そう思いリョーマは急ブレーキをかけ、通り過ぎそうになった階段を上ってゆく。
トントントン、と一人分の足音が聞こえ…しばらくしないうちに足音が2人分に増えた。
後ろを確かめるでもなく、不二特有の甘い香りがぷぅん、とリョーマの鼻をちらついている。
リョーマは何も言わず、振り返ることもなく、ただ前だけを見て走った。
不二の存在を認めてしまってはしゃくだとでも思ったのだろうか、その足はただ一直線を走らず、こ ろころころころと進路をかえている。
だがその度についてくる存在。
明らかに怒りの色を浮かべながらもやはりリョーマは走りつづけた。
その時、リョーマの腕を引くものがあった。


**


「まけらんねぇ……」
たくましい足腰を持った男はぼそりとつぶやいた。
これ以上ないという日本独特の艶めいた深い黒い髪をオレンジの鮮やかなバンダナが覆っている。
足は細いのに何故かたくましく見え、腕同様に見えた。
その軽やかなフットワークは普段からかなり走りこんでいるように見受けられ、片足を上げた瞬間に 見える靴底はそうとうすりへっている。
「負けてたまるか……あんな……」
そこまで言いかけた男、海堂はうっ、と吐き気をもよおしたように手で口を押さえた。
頭の中をあの奇妙な声をあげた液体がちらつく。
その足が数秒止まった。
「……っ」
海堂は水浴びをした犬のように、身体を振った。
そしてまた走り出す。
「………しゃーねー。とりあえず校内の見つかりにくいところを探して……」
そこまで言って言葉は止まる。
海堂の耳には一つの音が聞こえていたのだ。
チャリン…
その確かな音が。
チャリン……
音は頭上で鳴った。
線のはっきりとした顔立ち。
凛と空へ向かって立つ耳。
威厳を称えて伸びるひげ。
風にうっすらなびくしっぽ。
以上の情報から海堂の脳はとっさに判断する。
これは……猫。
そこだけに地球上の光が集中しているかのように海堂の目にはとてもまぶしく映った。
この認めたくない現実からの唯一の救世主。
まさに癒し。
海堂の目はまっすぐにその1匹の猫に向けられ、脚は勝手にその猫の方へと向かっていた。
1歩1歩怖がらせないように近づいてゆく。
まさに猫を抱き上げようとしたその時――――――!!!
同じように海堂の身体に2つの手が触れた。


* *


くすくすくす
そんな「笑いをこらえた」笑いがどこからともなくする。
笑いたいがそれができないでいる声だ。
それも2つ。
「桃あったまいいなー!!ここなら絶対にみつかんないよ!」
「でしょ?英二先輩だけ特別に教えるんすからね!感謝して下さいよ〜」
そういたずらっぽく言うとなんだとー!という笑いの混じった声と一緒にとっくみあいが始まる。
暗い隙間から入ってくる光がとても眩しい。
だがそれとともに入ってくる新鮮な空気は都会にいるのを忘れさせてくれるようで、心から落ち着け る場所だった。
足場は不安定。
そしてとても狭い。
「いくら乾って言ってもさ、こんなに上まで探しにこないよなー!しかも葉っぱだらけでただ見ただ けじゃ絶対に見えないよー!」
「しかも“校舎敷地内”っていう範囲ぎりぎり。
こんなところにこんないいものあるなんて気づきませんよ」
そこは大樹の上だった。
大樹と言ってもそんなに大きいわけじゃない。
この青学の範囲内でのみの大樹である。
だが2人の姿を隠すには十分だった。
喧騒が遠くに感じる。
どこかで上げられている叫び声は乾に捕まった部員の声だろうか。
鬼に、乾に捕まると言う事はすなわち生命の危機を表す。
必死になって逃げ回っている者も、捕まったとたん血相を変えて生き残りを探す。
鬼ごっこというより最早かくれんぼかポコペンのようになってしまっているこのゲームは、思いのほ かスピーディーに鬼の増殖傾向にあった。
その理由は一つ。
鬼が乾だからだ。
「でもさー、桃?あの乾が鬼だよ?“俺のデータんいよると…”とかいいながらこの木の上まで上っ てきそうじゃない?」
「やめて下さいよ、英二先輩。そんな事言い出したら……!!」
その時、突然桃の瞳が見開いた。
ある一つの存在が桃の目を奪ったのだ。
ぎゅ、ぎゅ、と一歩一歩近づいてくるその足音。
「桃?何やって……」
「英二先輩危ない!」
『…………?!』
その瞬間、二人の視界が急転した。


* *


「……ちぇ。開始直後に捕まるんだもんな〜。やってらんねーよ」
「俺なんか用足してるときにだぜ?全く容赦ねーよなー」
あちこちで不満の声が漏れてくる。
太陽が赤く染まり始めた夕方。
このゲームは終わりをむかえつつあった。
殆どの部員がつかまる中、捕まっていないのは2名。
「ところで不二先輩と越前のやつ、どこ行ったんでしょーね」
「俺より残ってるにゃんて許せないー!!!」
そしてレギュラー陣の声も。
他の部員とは全く別物の「ねばり」を見せたレギュラー陣であったが、その勝利を妨げたのは乾のデ ータだった。
B5のノートにびっしりと書かれた文字。
「秘」とかかれ、尚且つ部内で一番の身長をもつ乾のノートを見れた者は誰一人としていないが、ひ とときもかかさず呟いている乾を見て、何日もかけて綿密に調査、実験を重ねていたことは明確だっ た。
そしてその恐ろしいノートを見ようという勇気のある者もいない。
「あーーー!!!!!海堂いるじゃん!!!優勝候補だと思ってたのにー。どうして捕まったのさ」
英二の元気ありあまる声にけっ、と毒づきながらも海堂がゆらり、と口を開く。
その影には思い空気が漂っている。
「……俺が猫を…その……からかってた時にいきなり後ろからとびかかってきたんすよ……乾先輩が 」
そして何故か頬をほんのり赤らめて。
「あっはっはっは!だっせーな相変わらず!」
「んだとぉ?!喧嘩売ってんのかてめぇ!そういうお前だってしっかり捕まってやがんじゃねーか! 」
桃の挑発に簡単に乗ってきた海堂は今にも殴りかかりそうな勢いで桃に食いかかる。
その光景は決してめずらしいものではなく、誰も気にする者はいない。
だが英二だけは例外で、誰かに聞いてもらいたかったといった面持ちで目に怒りを込めた。
「ちょっと海堂聞いてよー!!桃ったら、俺のこと木から落っことしたんだよー!」
「ちっ!違いますよ!!俺は英二先輩を助けようとかばったら……結果的に落としちゃっただけで… …それに怪我なかったんだからいいじゃないっすかー!」
その言葉に嘘はない。
英二を助けようとして、結果的に2人とも捕まった。
乾が木の上に水鉄砲を発射してきたのだ。
自分が1本1本の木に登って誰かいないか確かめるには要領が悪すぎる。
何しろこのとてつもない範囲の敷地だ。
「木」という標的にばかりかまっていられなかった乾は水鉄砲を持ち出した。
死角から突然水をかけられ、声を上げない確立は11%。
そのデータ通り水鉄砲を発射し、瞬間気づいた桃が英二を庇おうとして……落ちた。木の上から。
計算とは少し違ったものの、2匹も同時に確保でき、乾としては棚から牡丹餅である。
勿論「捕まった」というより「落とされた」という意識が強い英二の怒りの矛先は桃に向けられてい た。

わぁわぁ、と辺りがより一層騒がしくなる。
その喧騒は夕暮れには似つかわしくなく、このグラウンドだけがあたりに取り残されたようになった 。
乾のメガネが光る。
「みんな、これが最後だ。聞いてくれないか」
その声は皆を魔法にかけたように急に静まり返させる。
そう、鬼たちは気づいたのだ。
このゲームはまだ負けが決まったわけではない、と。
「残るは不二と越前だ。みんなも知っている通り、一筋縄ではいかない。そこで思い出して欲しいん だ。このゲームのルールを」
一気に緊張感が走る。
何名かを除いてはその意味を理解したようだ。
「つまり、俺たち鬼が罰ゲームを受けなくてすむには俺たちの勝利……鬼がかけっこに勝つ事 だ。そこでどちらを狙っていけば良いか………」
時間が止まる。乾が神の言葉を発した。
「越前狙いでいこう」


* * 


リョーマはしっかりと抱きすくめられていた。
不二の両腕にはすっぽりリョーマが収まる。
そのまま物陰へと引きずり込まれたリョーマは何が何だかわからず、混乱していた。
ただでさえ人があまりこないこの廊下。
それなのにいきいなり連れ込まれた先は階段下の…用具室だろうか。
この学校にきてもうすぐ1年になろうというのに全くその存在を知らなかった用具室はやけに空気が 冷たく感じられた。
小学生なら「隠れ基地」と銘銘してみんなで遊びだしそうなこの場を知っていたのは、やはり3年間 この学校に通い続けたたまものだろうか。
だが今のリョーマにはそんなことはどうでもよく、この自分をきつく抱きしめている不二を突き飛ば したい一心だった。
しかし現実はそう甘くない。
ただでさえ身長差があるのだ。力ではどうすることもできない。
ただ黙ってるしかなかった。
「…………いい加減にしてくれません?」
たまらず絞りだすっように声を出したのはリョーマの方だった。
苦しくてそんな声を出しているのではない。怒りで今にもかみついてしまいそうなところを必死に堪 えているのだ。
手も足もだせない以上、残っているのはその達者な口だけだった。
不二はあぁ、ごめんごめん、といつもの笑顔で手を離した。
リョーマがきつく不二を睨み付ける。
だが不二の笑顔は変わらない。
なんともおかしな空気が流れる。
「なんなんですか、いきなりこんなところに押し込めて。かくれんぼしたいんなら一人でやって下さ いよ」
その言葉に不二は冷たいなぁ、と笑いながらリョーマの肩をとり、そこに座らせた。
座った床から冷たさが伝わってくる。
その冷たさが全身を取り囲んでしまいそうで、リョーマはぶる、っと身震いした。
埃交じりの空気。
太陽の光が届かない室内。
そこはネガティブ思考の者にとってはまさに天国のような所だろう。
だがそんな考えとは無縁のこの男たちがその空気に飲まれることはない。
「ねぇ、越前くん。越前くんはこの勝負どうみる?」
「どうみる……って?」
リョーマは不二の言葉をオウム返しに聞き返す。
リョーマとしては勝負どうこう、というより目の前のこの男から離れたくて仕方がない。
すると不二はだからさ、と続けた。
「この鬼ごっこ、誰が最後まで生き残ると思う?みんなあの乾汁を飲みたくなくて必死だろうけど」
その不二の愚問にリョーマは「は?」と鼻で笑った。
「何当たり前のこと言ってるんすか?俺は誰にも負ける気、ないんすけど」
本当に「当たり前の事を聞くな」という態度で言っているリョーマを見て、不二は内心安心する。
誰にも屈せず、属さないこの態度。
何に対しても恐れず進んでゆくその態度。
それこそが不二がリョーマに惹かれる一番の理由だった。
すると不二はぽんぽん、とリョーマの頭を優しくたたく。
「じゃあ……本当にそうさせてあげようか?」
「え………?」
そのリョーマの疑問の声に答える者はいなかった。
不二は自分の言葉を放つと同時にすっとその場を立つ。
向かった先はその出口。
リョーマは開放された、という安堵感よりも言い知れぬ不安に包まれた。
その直感はすぐに正しい事が証明される。
目の前で、乾と不二が話している。
それは明らかに鬼と生存者という立場で会話をしているように見えない。
リョーマは恐る恐る外へと出た。
そこで待っていたのは乾の達成されなかったデータと不二の策略に満ちた笑顔。
「参ったな…俺は越前に鬼になってっもらおうとここに来たのに…どうしてお前が飛び出してくるん だ」
不二はははは、と笑う。
「だって、中にいたら足音聞こえてくるんだもん。どうせこんなとこ来るの乾だと思ってさ、嬉しく なって飛び出しちゃった」
語尾にハートマークを散りばめ、冗談交じりの声に乾は馬鹿を言うな、と笑って答える。
この男の考えることは決して単純ではない。
その裏には必ず意図がある。
誰しもそう考えていた。
「……まあ、問いただしたところで不二が本当の事をいうとも思えんしな」
――――ところで
そういうと今まで不二に注がれていた視線がリョーマに注がれた。
空気が突然真面目なものへと変わる。
「2人とも。最後の勝負だ。これから部室までのかけっことなる。ルールは知っての通り、先にベル を取った者が勝ちの連帯責任性……」
その先の言葉は言わずとも知れていた。
つまり、「罰ゲームがある」、と。
「位置について………」
その幕は突如下ろされた。
「レディ…………ゴー!!」


* *


300m走。
距離としてはそのくらいだろうか。
全力疾走。
体力的には何も問題ないが、そのスピードは周りのものが予想していたものより遥かに速いものだっ た。
どこにそんな体力が残っているのだろうか。
2人の競争を見守っているギャラリーはそう思ったが、この2人は「鬼ごっこ」という面において殆 ど体力を使ってないのに等しい。
故に全ての力をぶつけてきているこの競争は凄まじいものとなっていたのだ。
見えたと思えばそう時間がかからないうちに姿が見えなくなってしまう。
走っている者同士、まるで妨害をしないのが嘘のようであったが、それがこの全力疾走を生んでいた 。
辺りからは不二を応援する声であふれ返っている。
当たり前だ。
自分の生死がかかっている。
だからと言って規則がある以上、妨害することも生き残りに惰性をあびせることもできず、観客はひ たすら最後の鬼に声援を送っているのだ。
「……よっ」
不二がコーナーを取った。
ほぼ同地点を走っている2人だ。
この事実はリョーマにとっては不利になる。
だがリョーマとしてもこのまま黙って引き下がるわけにはいかない。
進行先に置きっぱなしにされている掃除用具を飛び越え、半歩不二の前に出た。
その先にあるのは玄関。
2人は上靴のまま迷わず玄関のタイルに1歩踏み出す。
だが小さい玄関の扉。2人同時に飛び出せる幅ではない。
リョーマは自分の身体では押しのけられると思った。
不二はリョーマに先に滑り込まれると思った。
その2人が選んだ道はたったひとつ。
(“不二先輩より”“越前より”先に行く!!!)
その場で二人は左右に跳んだ。
目の前で閉ざされている少し重い戸を開け放ち、2人は新鮮な外の空気の元へと解き放たれる。
小柄なリョーマの方がタイムロスが少なくてすんだ。
これで2人の差がなくなった。
いや。リョーマが少しだけ前にでている。
目に入ってくる景色はたった一つのゴール、「部室」だけ。
観客のエールも耳に入ってこない。
表面がごつごつしたコンクリートを最後の力を振り絞って走り抜ける。
その瞬間。
部室の扉に先に手をかけたのはリョーマだった。
1秒程遅れて不二もその扉を開ける。
リョーマが大きく手を伸ばし、ベルを掴み取ろう
と手に力を入れた。
風がリョーマ一人を包み込む。
光がリョーマひとりを祝福する。
勝者、リョー………
―――――………
その時。
目の前が真っ暗になった。
何かがリョーマの前に立ちはだかっている。
暗くて、視界が狭くて、何がなんだかわからない。
わかることと言えば、唇の温かい感触だけ。
視界が不二の顔でふさがれ、頭は混乱して、自分は今勝利の栄光を掴んでいるのだろうか…?
その居心地の良い唇の所為でリョーマの意識が遠のく。
不二の腕できつく抱かれ、奪うキスではなく、与えられるだけの優しいキスを貰い、足が地に着かな い。
「…………ん」
そっと離された時、始めに目にとびこんできたのは不二の笑顔だった。
悪戯気ににっこりと微笑む。
「………」
リョーマの声は出ない。
いや、出そうと思っても出てこない。
何故なら………、
「僕の勝ちだね…越前くん?」
その笑顔に阻まれてしまうから。
リョーマにとっては将に鬼の笑顔だった。
この笑顔には敵わない。
そして、不二の笑顔の横にかかげられた「ベル」
それを持っているのは、不二の細く長い指。
それはリョーマの負けを意味していた。
「そーんなにみつめないでよ。照れちゃうじゃない。あ。もしかしてそんなにキスしたのが嬉しかっ た?それならそうと言ってよ。じゃあ今度はもっと…」
その言葉はリョーマの拳で阻まれた。
「ミラクルクリーンヒット」とでも名づけられそうなそのパンチは、不二の端正な顔にくっきりとめ りこんでいる。
自慢の笑顔がそのままの形で固まった。
「……………まだまだだね」
ぼそ、っとこぼした言葉は、不二まで届いていただろうか?
リョーマは何も言わず、立ち去った。
そこには立ち尽くす不二と、リョーマを取り巻いていた空気が残るのみ。
「………………ははは」
ドアが閉められたと同時に響く、小さな笑い声。
そこにはおなかを抱えてうずくまる不二がいた。
その白く、細長い指がさらさらと流れる不二の髪をわしづかみにした。
「ごちそうさま」
そういい、リョーマの出て行った方をいとおしそうに眺めた。
不二の左手には、リョーマを引き止める為に掴んだ、リョーマの細い手首の感触が、しっかりと残っ ていた。
それをきゅ、っと心に刻み付けて。

「まだまだだね」
「………まだまだだね」
「まだまだ………」
リョーマはもくもくと歩きながらつぶやいていた。
観客の声などまるで聞かず。
いや、耳に入ってくるわけもなかった。
ついさっきの…不二の、キスのことしか考えられず。
「……くっ」
絶えられず、走り出す。
真っ赤に染めたほおの色をどこかへやってしまいたくて。
この乱れた心をどこかに投げ捨ててしまいたくて。
だけど、どうしてだろう。
収まるどころかどんどん加速していっている。
走っているせいだろうか。
そう思い、いや、走っているせいにしたくて走ることをやめても、その心臓の音はおさまることを知 らない。
ずっと目を背けてきた思いが、加速し始める。
「…………まだまだだね………俺も…」
何時の間にか訪れた夜風が、リョーマをそっと撫でた。
そのままかばんも持たず、着替えもせず、リョーマは帰路へとついた。
頭の中を、不二でいっぱいにして。
「………このやろう」
それが精一杯の抵抗の言葉だった。

月日を重ね、想いを悟る。
リョーマの先にそびえたつ月日は、一瞬か永遠か。
だがそれは、神のみぞ知る。
真実の先にある真実に、リョーマは希望を託した。



追記。
大ジョッキで乾特製汁を無理やり飲まされたリョーマが、1週間高熱に倒れた事は乾汁の輝かしい歴史となった。


+END+


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皆様こんにちわ。夜兔禾紫です。
テニプリ小説、殆ど書けずに、ほっっっんとうにご迷惑をおかけしました(汗)
言い訳、ないです(−−;)
さて、今回は久々の不二リョ小説。
本当はもっと細かいところまで書きたかったのですが(桃と英二の話など)それを書いていたらとり とめのないことになりそうで、断念してしまいました〜(><)
中途半端になってしまいまして、申し訳ございません。
最近ど〜うもスランプ抜けきれません;
原因は、創作物に触れていないからだと思います。
刺激物に触れ合っていない、といいますか。
本当、夜兔、他のものに影響されやすいので(^^;)
早く時間に余裕をもてるようになりたいです。
ですが夜兔の場合「時間ができる」ではなく「時間を作る」努力をした方がいいですね(^-^;)
ここまでのお付き合い、ありがとうございました!!

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